粛殺の気配と懺悔の僧

『真実は小説より奇なり』

ですから私は歴史が大好きなのです。

へぇ…こんな凄いヒトが実際にいたんだなぁ…なんて考えるとワクワクする。

このブログでも何度も申し上げておりますが
私は歴史上の好きな人物に
かなり本気で恋焦がれてしまう癖がある。

ですから
我が家の三匹の犬も
早雲…北条早雲(戦国時代初期の武将)
道三…斉藤道三(織田信長の舅)
半兵衛…竹中半兵衛(豊臣秀吉の参謀)
ってな具合に好きな人の名前をつけているのよね。

それでも
まだまだ私の知らない偉人が歴史上には沢山いて
ちょっとしたきっかけで
そんなヒトを発掘すると
もう…血わき肉踊る…と、申しますか
例えるなら
合コンへ行って
超好みのストライクゾーンの男性がいた時くらい
盛り上がっちゃうわけです。

その中でも私にとっての特別なヒトは坂本竜馬様で
独身時代など
彼の写真をベッドサイドに飾っておいたら
遊びに来た友人が
「そんなにオトコに不自由しているのか…」と
涙を誘った程でございました。

さて…
話は変わりますが
最近私、
1998年に88歳で亡くなられた文人『白洲正子』さんにハマっておりまして
川村二郎氏著作の「いまなぜ白洲正子なのか」(東京書籍)を読んでおりました。

すると
「!!!」とびっくりする位
超ストライクゾーンのヒトを発掘しちゃったのよね!

それは
白洲正子のおじい様。

薩摩藩の橋口覚之進…後の樺山資紀…そのヒト。

ここからは興味のない人は全く持ってつまらないかもしれませんが
その本から一部抜粋させて頂きます。

『「白洲正子自伝」(新潮文庫)を呼んだ人なら、冒頭の衝撃的シーンを忘れることはないだろう。

話の主人公は薩摩藩士、指宿(いぶすき)藤次郎という示現流の使い手。幕末の京都で、同僚の前田某と街に出て、運悪く見廻り組みの8人と遭遇する。前田某はいちはやく逃げた。指宿はひとり踏みとどまり、8人のうち5人まで倒すが、下駄の鼻緒が切れたために転倒し、無念の最期を遂げる。

指宿の朋友に、橋口覚之進という気性の激しい若侍がいた。彼は京都錦小路の薩摩藩邸での葬儀の際、焼香のときがきても棺の蓋を覆わず、指宿の死に顔を灯明にさらしていた。

彼は参列者の中から前田を呼んでこういった。

「お前(おまん)が一番焼香じゃ。さきィ拝め」

ただならぬ気配に、前田はおそるおそる進み出て焼香し、指宿の死体の上にうなだれた。

その時、橋口は腰刀をぬき、一刀のもとに前田の首を斬った。首はひとたまりもなく棺の中に落ちた。

「これでよか。蓋をせい」

この激しい橋口覚之進なる若侍こそ、後に樺山家に養子に入り、樺山資紀となる正子の祖父の若き日の姿である。』

いやぁ〜ん!!
かっこいいんですけどぉ〜!!
思わず全身の鳥肌が立ってしまった私。

『樺山資紀は薩英戦争に始まり、鳥羽、伏見ノ戦と会津戦争を戦い、明治になってからも西南戦争、日清戦争と、生涯の大半を戦場で過ごした。西南戦争のときには陸軍中佐で、熊本鎮台参謀長として、負傷しながら熊本城を西郷軍の攻撃から守り通した。その下で参謀だったのが後に、日露戦争の英雄の一人になる児玉源太郎である。
(中略)
資紀は明治17年に子爵、11年後に伯爵に列せられ、晩年は大磯の別荘で老妻と暮らした。
朝、大磯の浜に散歩に出ると、漁師たちは「粛殺の気配」を感じるのか、鉢巻をはずして挨拶をした。朝食は少し残し、窓辺にくるスズメたちの餌にする。待ちきれず、肩にとまるスズメもいた。
(中略)
そういう祖父について正子はこう書いている。
「父に向かっても忠告がましい意見をのべたこともなく、孫の私にすら、物を強いた事は一度もない。祖母の饒舌を聞き流し、黙々と、スズメの餌をきざんでいる姿には、懺悔の僧の面影があった。」』

ここで本をパタンと閉じ胸にあて
感動することしばし…。

「粛殺の気配」と「懺悔の僧」の面影を持つ人。

そんな殿方って本当に素敵…。

昨夜はソファにふんぞり返り
とっても幸せな気分で色々な歴史への思いをめぐらせ過ごしました。

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