昭和大橋歯科医院 Dr.chicoの日記
前橋の昭和大橋歯科院 院長Dr.チコの日々の想いを綴っています。
お弁当
今年初めに発売された
「今日も嫌がらせ弁当」という本は
一時話題になりましたね。
著者のKaoriさんは
反抗期で口をきかない娘さんに
メッセージを込めて
キャラ弁を作り続けたブログはとても面白く
またお弁当の完成度も非常に高く
時々、思い出すと覗かせて頂いておりました。
母の娘に対する思いに
目頭が熱くなります…。
さて…
私は母のお弁当というと
いい思い出がないんです…。
子供には子供社会での面子があって
特に女の子の場合
彩りの鮮やかななお弁当と
全体的に茶色い色のお弁当とでは
茶色いお弁当もしくは
極端におかずの品数が少ない場合
非常に恥をかく…という事を
母は理解してくれませんでしたね。
忙しくてそんな時間はないっ!と、言われれば
それまでなんですけれども
例えば
ごはんの上に
(朝食に出た)焼いたシシャモが一匹横たわっているだけ!!とかね。
魚拓かよっ!という…(涙。
また”塩こぶ”を母は好んで使ったのですが
この塩こぶですが
彼女の実家の京都から送られてきたもので
高価な物ではあったと思います。
しかし当時、この辺では
あのタイプの塩こぶは
あまり一般的ではなかったように思います。
毎日お弁当を持ってこない子がおりまして
いつも彼は耳のうしろが真っ黒な男の子でした。
ある日、その子に
おにぎりをわけてあげた事があるのですが
中身が塩こぶだったわけです。
すると彼が
「何これ?!!気持ち悪いっ!」と、言って
おにぎりを壁に投げつけたんですなぁ…。
とてもショックだったのと
ものすごく恥ずかしかったのと
その反面、
母に申し訳ないという気持ちと
色々な思いがごちゃまぜになり
何だか泣けてきた記憶がございますね。
また祖母が作ると…。
おばあちゃん…汁物は別にしてくださいよ…、
ごはんが…ベチャベチャなんですけど…(涙。
祖母に苦情を言うと
「文句を言うなっ!戦時中はね!!」と、なり
だって私は戦時中の人じゃねぇわけですから
その当時と比べられても全然わからねぇですよ…と
何だか釈然としないまま
結局、解決策としては
自分で作るようになりましたね。
おそらく妹達も同じ様な思いをしたのでしょう。
比較的小さいころから台所に立つ様になりましたし
特に彩りはこだわる様になりますね。
今思えば、いい反面教師をしてくれたと
感謝しております。
新事実?!!
7月6日のビジネスジャーナルの
織田信長に関する記事を読んでいて
ちょっと気になる箇所を発見。
「信長は斎藤道三の娘、帰蝶(きちょう 、お濃、濃姫)と、
政略結婚しているが、”道三が死ぬと離別”している。」
うそぉぉぉん。
確かにそういった説もありますがね。
これって決定されるような新事実が発見されたのでしょうか?
道三が死んで離別説
病死説
本能寺で一緒に死んだ説(これは個人的には信じがたいですがね。)
70歳すぎまで長生きした説
いかんせん、記録がないのでわからないのですよね。
また記事では
「信長が一番愛したのは、帰蝶と離別する前から関係があった吉野で
小牧城に吉野を正室として迎えた。」
この記事を書いておられるのが
日本歴史宗教研究所の所長ですからね。
向学のために電話で問い合わせみようかなぁ…なんて
本気で考えております。
確かにいくつかの資料では
吉野の事を「御台」という正室の呼び方をしている記録もあるんですがね。
信長&吉野のラブラブ説は
武功夜話がネタ元なのかとも思うのですが
そもそもこの武功夜話が偽書だというのが通説になっていたりして。
しかし
「安土殿」という女性が信長の一周忌法要を営んだという資料や
織田信雄の家計簿の様な帳簿には
安土殿という記載が出てくる。
安土は信長の本拠地ですから
「安土殿」という名がつくという事は
これが帰蝶の可能性もあるわけでして…。
私の調べなきゃいけないリストには
昔から「帰蝶の行方は?」というのがございましたが
何しろ記録がなさすぎてお手上げ状態でございましたね。
個人的には長生きして欲しかったと思っているんです…。
うちのこれ↓の名前は
斎藤道三から頂戴しておりますのでね。
彼の娘の帰蝶には
信長の死後も幸せに暮らしてくれていたらいいなぁ…と。
なので今回の記事を読んで
”断定”されておられるのにはとても驚きまして
「気になって気になって夜も寝られない」と大さわぎをしております。
スタッフの新井ちゃんに
「一週間ですかね…飽きるまでに…」と、苦笑されて苦笑気味です。